水木を好きにならないわけがなかった
たぶん多くの方がそうなんでしょうけれど、令和になってまさか自分が鬼太郎の映画を観に行くことになるとは思いませんでした。
私なんてアニメ版の鬼太郎すらほとんど観たことがありません。
唯一子供の頃に映画「ゲゲゲの鬼太郎 大海獣」を観た記憶がうっすらと残っているくらい。
あとは、学生時代に水木先生の『のんのんばあとオレ』の文庫本を読んだくらいでしょうか。
そんな私が何故わざわざ劇場に足を運んだかというと、それはもう、水木という男の顔がめちゃくちゃタイプだったからです。
ツリ眉タレ目、ちょっと古めかしいシルエットのスーツがよく似合っていて、その上戦場帰りでPTSD持ちだという。
そんなの好きになるに決まっている!!
(PTSDという病気に萌えるという意味ではなく、私自身がPTSD持ちなので共感できるという話です。)
ありがとう、水木様。私の好みの顔をしていてくれて。
おかげで素晴らしい映画と出会えました。
運命の恋を探して
というわけで、完全に水木目当てだった私ですが、映画を観終わってからいまこの感想を書いている間もずっと頭の中を占拠しているのは、水木ではありません。
龍賀沙代さんです。
「沙代」というひとりの人間として運命の相手と恋をしてみたい。
恋を知るよりも先に「龍賀の女としての努め」を課せられた彼女にとって、その願いはどんなに切実なものだっただろうと思います。
まず、沙代さんが水木に恋をしたのは、出会った際に水木が鼻緒が切れて困っていた沙代さんを助けてくれたからでしょう。
自分が「龍賀沙代」であると名乗る前に、水木は肩を貸してくれました。
実際には水木はあらかじめ龍賀家の家族写真を見ており、顔を見た時点で彼女が龍賀沙代であると当たりをつけていたわけですが、沙代さんはそのことを知りません。
沙代さんにとって水木は生まれて初めてなんの下心もなく自分を助けてくれた、「自分」を見てくれた人物でした。
そんな沙代さんが水木に求めたのは、村の脱出が実際にできるかどうかではなく沙代さんと共にありたいと思うかどうかの「気持ち」でした。
もちろん、沙代さんだって出会ったばかりの水木が心の底から自分を愛しているとは思っていなかったと思います。
それでも、水木は優しい人だから村の外へ出て一緒にいれば上が湧いて本物の愛が生まれるはず、と期待したのでしょう。
水木に嬉しそうに寄り掛かる沙代さんは、水木に対する恋心以上に「ああ、愛する人の胸に抱かれるという夢が叶った!」という気持ちがあるように見えました。
愛したいから役に立ちたい
ひとりの人間として見てもらいたい。
そう願ってやまない沙代さんですが、生まれてからずっと龍賀家の道具として使われてきた彼女は、それ以外の振る舞いを知らないのではないか。
そう思わざるを得ないほど、自分の身の危険に晒しながら水木の求める情報を渡し続けます。
そして、水木がどんな人間なのかを尋ねたり、自分がどんな人間なのかを語ろうとはしません。
これは、自分の家族の話や何歩での戦争体験などを打ち明けあった水木とゲゲ郎とは対象的です。
でもそれは、沙代さんにとっては仕方のないことだったのでしょう。
沙代さんは自分のことを知られたくなかったし、これまで沙代さん自身に興味を持って話しかけてくれる人も周りにいませんでした。
ひとりの人間としてお互いを尊重しながら関係性を築くとき、どんな風に心を通わせていくのかを全く知らなかったのですから。
「夢」と「憐れみ」
優しく才覚があり自分の過去を知らない東京の男。
きっと彼となら人生をやり直せる、愛してもらえる、と沙代さんは夢を見ました。
でも、水木は沙代さんの隠したい過去を知っていました。
当然のことながら、水木は「それでも俺は君のすべてを受け入れる!」と即答できるほど沙代さんのことを知らないし、愛してもいません。
「俺も君を利用しようとした」と懺悔されたとき、彼女は「ああ、このひとも最初から自分が龍賀の女だから肩を貸してくれたのだ」と気づいてしまったのだと思います。
水木はゲゲ郎に「憐れみをかけた」と言われて激昂し、ゲゲ郎の胸ぐらをつかみました。
沙代さんにとっても、きっと同じことだったのでしょう。
自分を愛してくれるはずだった男に憐れまれることの屈辱。
沙代さんが絶望するのも仕方がないと思います。
ちがう生き方があるかも、と夢みなければ村で生きていけたかもしれない。
だけど、沙代さんは夢をみてしまいました。
そして、その夢を目の前でぐちゃぐちゃに踏みつけられてしまったら、もう生きていけない。
この村でも、東京でも、この世界中のどこでだって。
「いつか運命のひとと恋をしたい」
それだけが、沙代さんの中にたったひとつ残っていた宝物だったのですから。
沙代さんからすれば、その夢を壊したのは水木でしょう。
だから、水木を殺そうとする。
今や水木は沙代さんの壊れてしまった夢そのもので、それを目の前から消し去ってしまえば彼女はまだ生きていけるかもしれないから。
被害者であり加害者でもある私たち
この映画の素晴らしいところは「誰もが被害者であり加害者である」ことを描いるところだと思います。
水木は「お国のために」と下された玉砕命令で死にかけ、親族に全財産を奪われ、哭倉村での凄惨な事件に巻き込まれた被害者です。
しかしその一方で、戦争時には敵を殺し、幽霊族や沙代たちの犠牲によって生まれた「M」の利益を得ていた会社の一員であり、「もう自分が踏まれることのないように踏む側になりたい」という明確なモチベーションを持つ加害者でもあります。
それと同じく、沙代さんもまた「龍賀家の女の努め」を強要され続けた被害者であり、村長らを殺し、水木の首を締めた加害者です。
沙代さんが手をかけたのは復讐されても仕方のない人たちではあるのですが、「ここは法治国家ですよ」と水木が言った通り、許されることではありません。
沙代さんを加害した奴らは法に裁かれなかったのに。
沙代さんは助けてもらえなかったのに。
もし私が沙代さんだったら「どうして私はやり返しちゃいけないの?」と思うでしょう。
だからこそ、鬼太郎は恨みを抱えたまま死んでいった霊の声を聞き、被害にあっている人間を助けようとするのかもしれないと思いました。
被害をケアすることで、復讐という加害を止めることができます。
そしてケアを受け回復した後でやっと私たちは自分の加害性と向き合うことができるのだと思います。
鬼太郎という希望
物語の終盤で、水木はゲゲ郎に託された妻を抱き抱えて村を出ます。
本当はこうして抱きかかえているのは沙代さんだったはずなのに、私だったら化けて出ると思ったけれど水木にとっても無念だったでしょう。
記憶をなくす寸前の水木は、いつの間にか消えてしまった岩子さんのことを探しています。
ああ、また自分だけが生き残ってしまった。
きっとそう思いながら、けれどもどうして自分がそう思うのか、どうしてこんなにも大きな喪失感を抱えているのか分からないまま意識を失います。
(正直にいってこういう展開がすごく好きです。
なんてことだ、と思いつつ胸が高鳴ってしまう自分がいることを懺悔しておきます。)
その後の水木がどんな人生を送ったのか、私は知りません。
でも、墓場から這い出してきた鬼太郎を抱きしめたとき、ゲゲ郎が鬼太郎と水木の未来を願った想いが時を越えて伝わったように見えて心が震えました。
終わらない悪夢をみよう
ここからは完全に二次創作的な妄想です。
狂骨によって記憶を失った龍賀孝三は、その後もゲゲ郎の妻の絵を描き続けています。
それと同じように、水木もまた記憶を失った後も沙代さんのことを本当の意味では忘れてはいないのではないかと思うんです。
もともと水木はPTSDによる悪夢を見ていました。
沙代が青い炎に包まれて死んでいったあの瞬間を、水木は何度も夢に見るかもしれない。
夢は通い路でもありますから、きっと沙代さんも水木が自分の夢を見ていることを知っているでしょう。
なにも思い出せないのに、また会えたことがうれしくて、もう会えないことが悲しくて。
その手を握ってやりたいような衝動に駆られて涙する。
そんな水木の姿を見たら、沙代さんも慰められるかもしれないなと思います。
時弥くんよりも先に沙代さんが成仏していたのは、そういうことじゃないかな……と。
(「愛するひとが苦しむ姿は見たくない。自分が死んでしまったら別のパートナーを見つけて幸せに暮らしてほしい」と魂が健全なひとは思うようです。
でも、私のような人間は、愛するひとが自分の死を嘆き悲しみ絶望していたらきっとよろこんでしまうと思う。
なので、沙代さんがそう思っても不思議じゃないと思うんですけど、どうなんでしょうね。)
長い時間をかけて夢のなかで愛を育んでいく水木と沙代さん、あるいは沙代さん生存IFで沙代さんの試し行動に振り回されて東京中を駆けずり回るはめになる水木、などの二次創作を浴びたいです。
さいごに
長々と書いてしまいましたが、本当に噛めば噛むほど味がするいい映画でしたね。
なんかもっとゲゲ郎と水木の関係性に萌えたりするんだろうな〜と思いながら観に行ったので、意外であるのと同時に、こういう思いがけない出会いがあるから映画って最高だよね!!とも思いました。
最後まで読んでくださってありがとうございました。